「オオカミが来たことを君に信じてもらうたった一つの方法」

 ある日、年長の子どもたちがまた作業に召集された。ロロは皿洗い当番だったので、少し遅れて皆に合流しようとしていた。裏手の炊事場から外に出て、正面へと早足で向かう。と、建物の陰から、いきなり角材が振られロロの腹にぶつかった。殺気はなく、だからこそロロの対応は遅れた。地面に転がり、痛みに薄く湧く涙を瞬きで落とし、ロロはすぐ顔を上げた。木材は重かったようで、ロロのすぐ脇に落とされた。その放り捨て方はあまりに無造作で、少し場所を違えばロロの頭を打っていたかもしれない。人の傷つけ方を知らない幼い少年は、靴の踵でロロの背を蹴りつけた。
「ざまぁみろ! お前さ、マジむかつくんだよ!」
 彼の足がわずか上がった瞬間を計り、ロロは体を反転させ素早く起き上った。同時に反動で足払いをし、逆に少年が地に尻をつく。潰れたような悲鳴が上がった。ギアスを使うほどもない悪意だと、ロロは思った。 少年はロロの機敏な動作に反応できずにいる。反撃されたことが理解できない。ロロは懐から取り出した二つ折りのナイフを、小さく手頸を動かすことで開いた。刃煌めかせた。そこまでしても、まだ子どもはロロの行動の意味が分からない。ロロが持つ光の意味が分からない。
 ロロは、急に、この子どもの年齢を知りたくなった。
 自分自身いくつなのか知りたくなった。
 おそらくは同じくらいの年月を生きてきたのだ。海で隔てられた世界だから遠いのか、違うのか?
 どうして彼は殺意を知らず、自分はそれに息苦しいのか。


「シャーリーのあの意見は検討に値しますか」
「ん?」
「口数を増やした方がいいと」
「……ああ」
 一瞬上げた目線を、ルルーシュはすぐに資料へと戻した。
「いや、不要だ。今までの性格設定を変える必要はない」
「分かりました」
「それと」
「はい」
 やっと資料をぱたりと閉じ、顔を上げたルルーシュが不意に柔らかく微笑んだ。
「敬語、止めろって。前にも言ったろ」
 ルルーシュの腕がロロの頭に伸びた。ロロは思わずびくりと肩をすくめたが、長い指は優しく髪をかき混ぜただけだった。
「お前は、これまでと同じようにしてればいいよ。な?」
「………う、ん」
「いい子だ」
 ルルーシュはロロの頭に手を置いたまま、そのこめかみあたりにキスをした。ロロは、兄の唇が押し当たった場所に片手を当て、わずかに発熱する頬を自覚した。そしてその言葉を反芻した。
 これまで通りに。
(…でも兄さん、「性格設定」なんて言葉、前までの兄さんなら使うはずなかったよね?)

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「落日のフェスタ」

「君はあまりそういう噂話が好きじゃないんだね」
「お前だってそうかと思ってたよ、俺は」
 越智の話にしろ、市河の話にしろ、彼があなたとの雑談で話題にするには些か毛色が違う。
「おかしいかな」
「意外だ」
「君は僕の何を知ったかぶっているんだろうとたまに思う」
 あなたは足を止めざるを得なかった。塔矢は数歩先に進み、それからあなたを振り返った。
「お前は分かりやす過ぎるんだ」
「そうかな」
 塔矢は笑おうとしたらしかったが、できずに口を噤んだ。
「君は分かりづらい」 それからそんなふうに文句を言った。
「いいんだよ、男は少しミステリアスなくらいで」
「そうやって君はいつも僕を、」
 塔矢は言葉を飲み込んだ。あなたは聞かなかったふりをした。まだ駄目だと思った。まだもう少しあなたは何かに届いていない。「それじゃ。またな」 あなたは誤魔化したまま、彼の顔を見ずに道を折れた。自然と足は速くなる。駆け足であなたは人の多い大通りへ急ぐ。そうしてスクランブル交差点の真ん中で、あなたはやっと顔を上げた。四方のビルまで距離があるせいで、東京らしからぬ広い空が見えた。もくもくと厚みのある雲の濃淡が、空の高度を感じさせた。また雨が降るのだろうか、灰色と爽やかな青が陣取り合戦の真っ最中で、そこへ夕焼けの赤が横槍の機会を窺っていた。水色の中に月が白く浮かんでいた。
 歩行者用信号が点滅している。あなたは急ぎ足で横断歩道を渡り切った。信号が変わると、左右からゆっくり車が動き出し、むしむしと熱せられた排気を撒き散らす。
 上の空だった市河の様子を思い出し、きっと今自分も同じ顔をしているとあなたは一人苦笑した。驚いた。今ここであなたとすれ違うたくさんの人、皆それぞれの喜びと悩みを抱え、一人ひとりの人生を生きる。同じように、あなたの友人や知人たちも、あなたの知らない世界であなたの知らない誰かと巡り合っている。何かだけは変わらない、誰かだけはずっと側にいる。そんなのがちっぽけな甘えと祈りに過ぎないとあなたは身に染みて知っている。だけど変わらない大切なものがいつもどこかにあることも。(どこだろう?)
 どこかとかいつかとか誰かとか、曖昧な言葉で誤魔化すには、あなたはもう大人に過ぎた。

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「Stay up There」

「小学生ならともかくさぁ…もう中学生になるってのに『くん』づけはないって」
「え……そうかな」
「そうだよ!」
 断言されて戸惑った。というかまだ今日までは小学生だと思ったがそこには触れないでおく。
「でも女の子たちは、」
「女子はまた別!」
 そうなのか。アキラは小さく首を傾げた。誰の名前も意識して呼んだことはないけれど、心の中でよくするのは彼のフルネーム呼びだ。進藤ヒカル。 そして海王中で、自分は進藤ヒカルに「進藤くん」と呼びかけた。認めた相手に礼を尽くしたつもりだったのだ。
 だけどそういえば、進藤ヒカルは自分を何て呼んでいただろう。
(――『塔矢』、だな)
 納得した。なるほど、では自分も同じように。
(……し…『進藤』…?)
 口の中で呟くだけで、なぜだか妙に気恥かしい。進藤ヒカル、ならいいのだ。

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「dust and ash ―君がいないストーリー」

 薄汚れた白い廊下を男が行く。
 戦争で負傷した人々が左右の病室から顔を覗かせ目を丸くする。老婆に拝まれ、子どもに握手とサインを求められ、そのどれも彼は無視し、看護師に教えられたルームナンバーを目指した。
 以前はきっと暖かな色をしていたのだろう、褪せたカーテンが翻る。人々の衣服や包帯を干す広いベランダ。風に富士の灰が混じり、洗濯物の意味をなくしていく。
 ベランダの手すりに凭れかかり、濁った外を眺めていた一人の少年が、ゆっくりと彼を振り返る。寒色の格子柄がうっすらと見てとれる寝間着姿で、少年は頭や体のあちこちに、再利用の包帯を巻きつけていた。彼の記憶より幾分と髪が伸び、しかしその右手には、見覚えのある携帯電話を握っていた。至るところが傷つき凹み、窪み、おそらくはもう電源を入れることもできないだろう、壊れた携帯電話だ。緑色のそれにつけられた、白いハート型のストラップチャームが、光をカーテン越し、部屋の中に反射する。
「……ロロ・ランペルージ」
 呟いた男の声は変声機を通し、かつてあれほどまでに憎んだ、今はもういない、もう一人の男のそれと同じ響きになる。
「なぜここに? ……ゼロ」
 硬く低く少年が、ロロが問う。その紫の両眼には、明らかな憎悪。そして薄いその膜の下、果てのない絶望。
「君が生きていると聞いた」
「だから?」
「迎えに行くようにと」
「誰に」
「ナナリー・ランペルージ」
 聞かれたので彼は答えた。しかし、質問と回答の間のほんの数秒、少年の瞳に光が灯るのを見た。ロロの期待した答えは彼の中になかった。
「なぜ? ナナリーは僕のことなど知らないはずです」
 平坦な声音でロロは視線を外した。携帯電話を握る指先は白く、その頬も血の気失せ白く、醜く形歪めた富士の山麓を眺めた。
「会いたがっている」
「僕は会いたくない。いいえ、会ったらきっと殺すでしょう」
「殺せないさ。自分がいる」
「あなたのことも殺したい」
 ロロは吐き捨て、爪先のほつれたスリッパでベランダの隅を蹴る。積もり、雨と混ざった黒い灰で汚れた。
「あなたがその仮面を被って、その服を着て、そのマントをつけて、その名前を名乗ってる。吐き気がしそうだ。殺したい。僕は数えきれないほど殺してきたけれど、今初めて殺意ってものを感じています」
「ではなぜ殺さない?」
「殺せないでしょう。それに、もう、いい。あなたを殺してもあの人は戻らない」
 乾いたバイオレットに虚ろを宿し、ロロは口を閉ざした。五分、十分、十五分、二十分、三十分。
 大部屋のベランダで声もなく、花も命もない世界を眺める。そんな少年たちを、病院の患者や医師らが窺っていく。世界の救世主・ゼロが、こんなところで時間を浪費する。病室に掛けられたレトロな時計の秒針が、遠い町から届く鈍い復興の騒音を指揮していた。
「暇なんですか」
 ぽつり、やっと、ロロがまた口を開いた。「鬱陶しい。帰ってください」
 鳥も飛ばない淀んだ空だった。光射す青空なんていうものを、ここずっと彼は見ていない。
「君を迎えに来たんだ」
「行く意味がない」
「まさか。そんなはずがない」
 忌々しげにロロが顔を上げた。彼の被るフルフェイスの仮面の黒に、少年のこけた頬が映る。荒れた唇。掻き毟ったのか、蚯蚓腫れに血を滲ませた首元の皮膚と。
「知りたいだろう? 彼の最期を」
 彼は黒の革手袋に包まれた左手を差し出す。ロロの顔が歪んだ。
「彼が何を思い何のためにあの道を選んだのか。なぜあんなふうに死ななければいけなかったのか。知りたくないか? 彼を………君の兄を」

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「ウランバートル行臨時特別急行PM4:57」

「はい、手配のほどお願いします。…あの、それから、お仕事を増やしてすみませんが、可能でしたらスザクさんもお呼びできませんか? 戦争は終わったと昨日お聞きしました」
「戦争はそう簡単には終わりません。どちらかが終わらせない限り。ただ、前線最大の基地は枢木卿とランスロット・コンクエスタの活躍により落ちましたので、戦況膠着状態というだけです。可能かどうかは私では判断できませんが、皇女殿下のご希望だけはお伝えしておきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 ブリタニア本国とモンゴルとでは、地球の裏側と言ってもいいほどの距離だが、白ロシアからなら、東へ廻ればブリタニアよりも日本よりも先にウランバートルがある。どこかで落ち合えれば嬉しい。
 ナナリーはできることならばブリタニア以外で枢木スザクと会いたかった。そうするとそこに、会いたくて仕方のないもう一人も、現われてくれるのではないかと。
(そんなことはありえない。…私は馬鹿ですね、お兄様)


 そもそも今回の発端は、ロロがルルーシュの弟という立場にも慣れた頃合、クラブハウスに帰宅したルルーシュが困り顔でした報告だった。
「何カ月も前に出したレポートが賞を取ったらしい。書いたことも忘れかけてたよ」
「珍しいね。いつもは目立ちすぎないように手を抜いているものね、兄さん」
「ああ。…だけど、それ、どうしてだったかな…」
「…どうしてだろうね。それで?」
「え? ああ、それで、ウランバートルでの学会に招かれたんだ。もちろん辞退することも可能だけど、旅費も宿泊費も学会持ちだそうだし、一緒に行かないか?」


 足音に気付くのが遅れた。ギアスの対象範囲外から、誰かがこちらに近づいているのだ。女を止めているギアスの制限時間もぎりぎりだった。
(ダメだ…!)
 一度ギアスを解除し、すぐにもう一度、今度は範囲を広げ発動させようとした。しかし右の眼が熱くなりかけたとき、心臓がどくりと大きく跳ねて、鈍い刃に貫かれるような痛みが胸を襲った。
「…っ!」
 わずかな自己防衛本能がすぐにギアスを解除する。痛みに打ちのめされそうになりながら、必死で何かを考える。サインフィルドが妹を呼ぶ声が近付いていた。現状の最優先事項は、この場をすぐに離脱すること。
 凸凹とした道を数歩後ずさり、抜き身のナイフの柄を、横にして口に銜えた。空いた右手を強く地面に突いて、そこに口を開ける黒い穴倉へ飛び込んだ。
 体を強く打ちつけ、マンホールの底に転がり込む。半回転してやっと体勢が落ち着いた。静かにと注意する余裕もなかったが、ヘドロの柔らかな汚れが、衝撃の割に音の響きを緩和したようだった。

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「寄る辺なきこの薔薇色の日々」

 進藤からすれば、一晩中というのは言葉の勢いだろうと分かっていたが、言ったからには付き合ってもらおうと思っていた。それなのに気がつけば、アキラの方が先に炬燵の魔力に倒れてしまった。
 二局目、アキラの勝ちが決まったところまでは記憶がある。進藤が自分の悪手について意見を求めていたことは覚えている。それにどう答えたかが不明だった。炬燵のぬくもりは、薬の睡眠作用と電車の揺れに勝るとも劣らない。畳に敷いたカーペットが頬に柔らかく、暑さに目覚めたときは完全に体は横倒しだった。外した覚えのない眼鏡が、碁盤の横に置かれていた。温度設定はきちんと弱にされていた。進藤もまた当然のように、ジーンズのままで眠っていた。ファミリー用の大きな炬燵でも、もう数年で成人になろうかという男二組の体が入れば狭かった。脚が少しばかり触れ合っているのが余計に暑く、気持ち悪くて起き上がった。眼鏡をかけ直す。
 炬燵布団の中に外気が入り込み、進藤が唸った。アキラは柱の掛け時計を見上げた。昼が近かった。障子の向こうは明るい。とりあえず炬燵の電源を切り、立ち上がるとくしゃみが出た。風邪を引いたかと慌てたが、それは一度切りだったし、寒気もなかったのでセーフだと思った。見知らぬ他人に貰った薬が、効いたのかもしれなかった。
 台所へお茶を入れに行こうとしたところ、いきなりけたたましいギターと歌声が響いた。アキラはぎくりとして振り返った。進藤が蠢くように起き上がり、手であたりを探るのが見えた。彼の携帯電話だと気づき、隅に避けていたカバンを足で近くまで運んでやった。
「手使えよ…」
 まだ眠たげに責められた。
「早く止めろ。うるさい」


 …甘えたがりでしつこい男はお勧めしないと、別れたばかりの奈瀬に心中忠告した。急に格好よくなったと噂される割に、恋人はいないと思われている。それは彼の碁漬けの生活が、無論原因なのだろう。棋士以外に接点のない生活をしており、該当の範囲に適当な女性の姿がないからだ。二人はうまくやっている、やり過ごしている、と、アキラは他人事のようにぼんやり思った。片手に携帯電話を握ったままでいると、回ってきた車掌に注意された。優先座席付近だった。気まずく詫びて、電源を切った。
 真っ直ぐ帰宅しても良かったが、一応碁会所へ顔を見せた。
「お疲れ」
 丁度、携帯電話を耳に当てていた進藤が手を振った。
「電話するなら外で」
「違うよ、お前にかけてたんじゃん。電源切ってる?」
「迷惑メールが多くてね」
「アド変えれば?」
 皮肉のつもりが通じなかった。赤みを帯びたオレンジの小さな石が一粒、彼の耳朶に光っていた。
「あれ、塔矢、顔変えた?」
「バカな。どうやって」
 同じ日に同じことに気づくのでも、奈瀬の方が何倍も正確だった。比較にもならない。
「あ、眼鏡か。新しいの?」
「度が進んだんだよ。前のままじゃ試験に引っかかりそうだったから。レンズを買い換えるついでにね」
「試験?」
「運転試験」

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「デキソコナイノアナタヘ」

 目覚めた白い朝のせいで、明け方の夢は一瞬で消えた。夢の中でヒカルは息の荒い獣の唸り声を遠くに聞きながら、芥子の花畑で麦を編んでいた。
 そろそろ毛布をもう一枚出すべきと思いながらも億劫で、もぐりこんだ布団の冷えた感触に辟易する毎晩。それが、その朝は妙に暖かく息づいていた。覚醒してから数分間、ヒカルはぴくりとも動けなかった。もろもろの間接が錆びきっているように動けなかった。腕の中はずっとずっと暖かいのに、血の気が引くと人はこんなに冷たくなるのだと初めて知った。頬も指先も真っ青だった。
 素肌に直接当たるのは、布団だけでなく違う人の皮膚だった。じんわりと嫌な汗を滲ませる体に、ベッドの中は余計湿度を上げた。その人の体は逆に乾いていた。覚えている。昨夜の記憶はしっかりとあった。唇と指先で辿ったその人の皮膚はどちらかといえば乾燥気味で、口の端や爪との境にはいくつもの痛々しい血の跡があった。
 どうして覚えているのだろう、忘れていないのだろう、もちろん混乱の末路は同じだが、居た堪れなさに喉が引きつる。どうしよう、どうしようと何度も繰り返し問いだけを自分に投げかけていると、腕の中の生き物がほっと息を吐いた。耳に聞こえるその呼吸の音は、さらにいっそう大きなヒカル自身の鼓動に隠れた。
 今まさにその人がまぶたを震わせた。見もしなくてもそれが分かった。どうしよう。泣きたくなってヒカルは逆に目を閉じた。
「…進藤…?」
 しっかりとした男の声が聞こえた。心の中で繰り返していた言葉を、ヒカルは思わず口に出して応えた。相手の声とは正反対に、喉に絡んで掠れた。
「どうしよう…」

 アキラが帰ってから、最初にシーツを剥ぎ取ってゴミ袋に突っ込んだ。他にしようが思いつかなくなっていた。平均的か、もしくは多少晩生なところがあるヒカルにとって、体を重ねるときめきは恋と同義だった。そして恋などという言葉に思い当たるのは、以前つきあったことのある少女の顔だ。何年も前のこと、ヒカルは院生の少女に告白されつきあって、結局好きになれずに別れた。
 好きになれるかも、と楽観的に過ごした一月半の後、きっかけは些細なものだった。いつものように彼女と歩いていて、和谷義高から電話が入り、それが研究会か検討か、それとも単なる飲み会の誘いかも覚えていない。
「行くんだ?」
 承諾の返事で電話を切ったヒカルに、彼女がいつも通り確認し、他意なく頷いて二人して顔を見合わせた。
 彼女は驚いた顔をしていた。
 諦めきった自分に驚いていた。涙一粒なかったけれど、失恋というものの正体をこの目で確認したそのときの顔。
 ああいうのが恋というのだ。
 ああいうものを恋と呼ぶのだ。だから、アキラの言葉にどれほど傷ついた振りをしようとも、それに正しく答えた自分に愛想が尽きようともこれは違う。自分はその言葉が表す意味を知っている、「忘れればいい」などと言える男とは違って。

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「The Point of No Return」

「…塔矢、日刊サクラスポってもう読んだ? …わけないよな、見るなよ。誰かに見せられても、」
「悪いがもう見た」
 携帯電話越しに、塔矢の涼しい声が応えて、ヒカルは絶句した。
「気にしないよ。かなりうるさくなるだろうことは鬱陶しいけど。メジャーなスポーツでは定期的に湧き上がる噂だし、そこまで囲碁がメジャーになったという証拠だと思えば喜べる………わけはないけどね」
 最後の一言で、口調はがらりと不快げになった。
「だいたい君も、何だ。見るなって、それで通るわけないだろう。僕は当事者だよ」
「…俺に当たるなよ」
「……そうだな、すまない」
 塔矢が感情的になっていることで、逆に少し落ち着いた。
「俺、まだ中身はちゃんと読んでないんだけど」
「あえてお勧めはしないよ」
 刺々しい言葉が不意に緩んだ。「今、外?」

 簡単な通話だった。携帯電話をジャケットのポケットに滑らすと、ヒカルは歩き始めた。駅前の売店でスポーツ新聞を買い求め、電車の中で折りたたんで読んだ。
 本因坊リーグ最終局、塔矢と伊角の対局の、八百長疑惑だった。断言はしていない。あくまで読み手に疑念を生じさせるのが目的だろう。馬鹿馬鹿しいほどにありえないが、記事はしたり顔だ。最近の伊角の、塔矢に対する勝率の高さ、対局前に彼が友人らに漏らした言葉の数々。確かに不用意なものもないとは言えなかった。「進藤本因坊は塔矢と戦いたいから」、「自分はどうせ最下位なのは変わらないし」。
 塔矢が白星を買った、というよりは、伊角が黒星を売ったという書き方だった。確かに、塔矢側としては、そこまでしてこだわらなければならない一勝ではない。ただし、プレーオフになっていた場合でもそう言えるかというと、微妙なところだ。しかしありえない。あまりにも自明の理。
 ヒカルにそれを知らせてきた和谷のメール本文は怒り狂ったものだった。名誉毀損で訴えたっていい、と彼は書いてきたが、それは彼の役目ではないだろう。大丈夫、落ち着いてきた。
 ヒカルは新聞を降車駅のゴミ箱に捨てた。大丈夫、翻弄されるな。塔矢アキラはその力で自分に挑んでくる。それだけのことだ。雑音などどうでもいい。自分はただそれに応え、全力で打ち返せばいい。
 繰り返し「大丈夫」と自分に言い聞かせなければ、和谷のメールと同じくらい激しい形相になってしまいそうだった。

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「放課後アンゼリカ」

「…海王の大将」
「――『岸本』、」
 二秒ほどのタイムラグで返ってきた名前が、当の本人を指すものだと、ヒカルは倍の時間をかけて理解した。
「あ、俺、」
 院生になった、と告げようとして、傍らの母親を思い出した。なんとなく恥ずかしくなった。
「母さん、先帰っといて」
「お友達?」
「うん、そう」
 説明は面倒だし、する理由もない。逃がさないように岸本の袖を掴み、母親を交差点の向こうに追いやった。
 信号が赤になる。暖かそうなウールのコートを着た岸本は、高校生くらいに見えた。
「俺、院生試験受かったんだ。院生になる」
 ヒカルは背の高い岸本を見上げた。道路を走る車のライトが逆光になり、そのときの彼の表情は分からなかった。
「…おめでとう」

「あかり来てない?」
「来てない」
 第一声がそれだったので、三谷はどうやら少しむっとしたように見えた。ヒカルは気にせずに能天気な声を上げた。
「なんだ。英語のプリント写させてもらおうと思ったのに」
 一年の一学期、Your bike? Yes, my bike. で始まった教科書は余裕だと思ったのに、いつのまにか授業についていけなくなっていた。夏休み、そして九月の文化祭の間に、十ページくらい飛ばされたのかと思う。
「三谷んとこ、英語、小松?」
「安井」
「ちぇ。じゃあこのプリント出てない?」
 念のため、とプリントを取り出す。三谷は、並べていた盤面から一瞬視線を外した。
「出てない。それにそこ中間の範囲じゃねぇよかよ。写させてもらう、も今更ないだろ。自分でやれよ」
「わかんねぇもん」

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「LINK」

 エンジンが唸る。アクセルを。もっとアクセルを。遠ざかる。一秒でも早く見えないところへ逃げたかった。意外に酷使しているはずなのに、自分の視力はしつこく良好なのだ。ヒカルは聞こえないと思って呟いたのだ。きっと彼は「好きだ」と呟いたのだ。ああ、もし違っていたら笑える。どんな自意識過剰だ。
 母との約束まではまだ時間があった。辺りを流すつもりだったけれど、混乱に涙溢れてきたので車を止めた。後ろの車が追い越していく。小さな児童公園の横、自動販売機の横、雨のせいで人もいない。アキラはハンドルに突っ伏した。髪が流れて頬へと滑る。
 考えられない。考えられない。ヒカルの想いは裏表だ。好意の裏に、あの人への敬意と思慕があった。どんな人らの悔やみの言葉より涙より、ヒカルの告白が一番に傷みを思い出させた。なぜいつまでもただのライバルでいられない。あなたのせいか。あなたのおかげか。
 お父さん。
 愛しているのか憎んでいるのか、そんなこと考えられないくらい、結局はただ家族でしかありえない人だった。
 覚悟なんか吹き飛ばすくらい、別れは早すぎた。
 沈黙した車の中で、自分自身の泣き声がやけに子どもぽく耳に響いた。

「進藤!」
「信じる?」
 アキラの怒声に、ヒカルは静かな問いを返した。
「いや、別に信じてくれなくてもいいや。だって今でもお前、分かってるもんな」
「進藤、わけの分からないことを言うな。ちゃんと話せ」
「話さなくても、本当に、碁だけで分かっちゃうんだもんな、お前。凄いよ。確かに恋人なんか要らないよな。碁があれば、いいんだもん」
 ヒカルは両腕で盤面を崩し、石を分けた。
「話しても、いいよ。聞きたいなら。でも結構漫画みたいな話だから、お前信じないかも。俺は別にそれでもいいけどさ。でも嘘つけって怒られるのは嫌だな。だから、信じられないような話でも、それでもいい?」
 色毎に碁笥に戻し、今の一局を初手から並べていく。いや、違った。あのときの一局だ。自分たちの二回目の。雨の日の。
「…話せ」
 ヒカルは、黙ってその一局を最後まで並べた。長い時間だった。とてもとても長い時間、ヒカルは石を置くことで黙していた。
「……戻ってきたんだ」
 それから顔を上げて、にっこりと、ヒカルは笑った。
 よく知っている幼い笑顔。知らない、大人びた目の色。
 アンバランスな、だからこそ魅惑的な満面の笑みで、ヒカルはそう言った。
「戻ってきたんだ。あいつが」
 世界のすべての幸せをかき集めたようなその表情に、アキラはわけのない眩暈を覚えた。

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「風と光があなたに恵むように」

「うん、サンキュ。焦った」
 ヒカルは笑ってそう答えた。満員電車の中、掴んだヒカルの手を、アキラは自分の胸に引き寄せるような体勢になっていた。
 笑って、答えた次の瞬間、ヒカルの手が急に震えた。
 その震えのメカニズムのようなものを、アキラはなぜかしら解説できるような気がした。それも、先日打たれた、緒方対桑原の本因坊戦より詳細に、分かりやすく。
 触れられるくらい、どうだってことないのだ。
 認識が体に追いついたのだろう。ヒカルは、今更振り払うこともできず、そっぽを向いた。目元がうっすらと赤くなっていた。何て分かりやすく顔に出るタイプなのだろう。アキラは半分感嘆し、ぼんやりとその顔を見つめた。わかりやすい。誰かが自分たちを、意図的でないにせよもし観察していたら、即座に一つの答えを導き出していたはずだ。
 いわく。あの二人はまさに今、恋に落ちたのだ。
 ――不正解。
 アキラは架空の解答者に心中そう告げた。
 ヒカルの手はいまだアキラの胸元にある。アキラもまた、必ずしも平静でないことは、ヒカルに伝わっているはずだ。
 まさに今、恋に? それは違う、今更、落ちる場所などどこにもない。

「君、視力いくつだった?」
「1.2。もう少し上流、行ってみようか」
「あ、光った」

 発光。瞬きの間のわずかな光の軌跡。岩の間を雨混じりの水が、水が、水が行く。光が飛んだ。もう一つ。
「小さい」
「大きかったら怖いだろ。虫だぜ」
 二つの光が同時に灯る。動いて消える。小さい。涼やかな風に飛ばされそうなほのかな緑。光よりも闇に似ていた。照らすよりも照らされそうだ。ああそうだ。もしも今ここに照らす光があったなら。
 世界に二人。
 暴かれそうだ。

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「二番目の蝶番」

「なんや、清春、情けない」
 対局を見守っていた店の客から野次が飛び、塔矢も小さく微笑んだ。
「そうだぞ、関西棋院期待の新鋭が」
「…楽しそうやなぁ塔矢っ。くそ、もう一局!」
 音を立てて盤面を崩し、石を直していると視線を感じた。顔を上げると進藤がこちらを見ていた。けれど、社が何か言う前に視線は逸らされた。いつの間にか多面打ちの相手が増えたようで、進藤は立ち上り、いくつかのテーブルを往復して打っていた。右手は常に石を持つか置くために動き、左手の指先はジーンズの尻ポケットに入れられていたが、外に出た親指で扇子を持っていた。対局時の彼が手放さないいつもの扇子だ。旅行先にも持ってくるのだな、と社は思った。Tシャツから伸びた進藤の腕は、意外に大人びた硬さに見えた。
「なんや、あいつはよぉ分からんわ」
「え?」
 石を指に挟んだままで塔矢が聞き返した。
「進藤。謎や」
 塔矢はしばし言葉を探り、そうだね、と反応の薄い相槌を打った。
「……僕にも謎だよ、彼は」
 それから、小さくそう呟いた。

 お母さんに電話しないと、と思った。その頃は、やっと携帯電話が普及してきた頃だった。当然、小学生である自分は持っていない。(小学生でも、クラスで一番おしゃまな女子はポケベルを所持しており、皆の憧れの的だった。)母親は、自分たちとの連絡を取るために持っていた。PHSだったかもしれない。
 マンションの建つ一つ向こうの通りに、公衆電話のボックスがあることを覚えていた。そこから電話しようと思った。
「…どうかした?」
 しかしなかなか足が動かず、壊れた蝶番をただ凝視していると、背後から声をかけられた。驚いて、肩が大きく跳ねてしまった。勢いよく振り返ると、二戸隣に住む少年が、怪訝な顔をしていた。
「何でそんな驚くんだよ」
 背が高く、同じ学校の同じ学年。クラスは違う。東京から引っ越してきたこの頃、彼の話し言葉は、まだ完全に「東京弁」だった。

「うわぁ、やっしーってば、海で宿題やってはる。ださい」
 宇治金時ミルククリーム大盛りを片手に桐子が帰ってきた。あすかが、「美味しそう!」と歓声を上げた。抹茶と練乳で染まった氷の上に、たっぷりの小豆とクリームアイス。進藤は、社リクエストのメロンに、自分は定番のイチゴを買ったらしい。
「難しそー。あーあ、俺高校行かなくてすんでよかった」
 進藤はデリカシーのないコメントを投げて、水滴をプリントに零さないようにかき氷のカップを置いた。
「マンゴー味ってあったんだけど、人気商品って書いてあったよ。誰か食べてよ」
「最近いろんなのがあんねんなぁ」
「マンゴーカキ氷は台湾で人気らしいよ。父も食べたって言ってた」
「…塔矢先生お茶目やなぁ」
「美味しかったって」
「…俺買ってこよかな」

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「センチメンタル・スーパースター」

 ファイルの日付を確認する。アキラが中学一年の年、七月末。
 手を追っていくうちに鼓動が早まった。手筋が、古いのだ。古い定石。その印象は、出会った頃の進藤ヒカルに感じたそれと同じものだった。アキラ自身がsaiと対局したときには、感じなかった。
 そして対局の中盤。
 アキラは息を呑んで強く手を握り締めた。手のひらの内側に爪が食い込んだ。指の先が白くなった。拳の小刻みな震えが机に伝わった。zeldaはこれを見せたかったのだ。だからこの棋譜を選んで送ってきたのだ。

「お父さんが、徐さんのパソコンでメールくれたよ」
「自分で打ったのかしらね」
「打ってもらったんじゃないかな? 韓国の碁会所に一人で出かけたんだって。賭け碁でいっぱい勝ったからお土産たくさん買ってくるって書いてあったよ」
「お父さんに、私の携帯にもメールをくれるようお返事出しておいてちょうだい」
 二月十四日木曜日。第五十七期本因坊リーグ第五戦。アキラと緒方との対局の日、丁度ヒカルにも手合があった。第五十八期本因坊戦二次予選二回戦、対局相手は森下茂男九段。
 朝、灰皿のある踊り場で緒方が煙草を吸っていた。アキラには気づいていないようだったので、挨拶せず、先に入室した。碁盤は十分に清められていたが、何となくハンカチで盤面を拭っていると、この碁盤の前に座るのは父かもしれなかったのだと不意に気づいた。
 行洋が引退していなければ、親子対決は今日この日にも行われたかもしれないのだ。

 ヒカルが、わずかに震える腕を伸ばしてきた。抵抗はしなかった。ぎこちなく抱きしめられ、どちらともなくキスをした。
 いつもの、触れ合うだけのキスでは終わらなかった。ヒカルの舌がアキラの唇を舐める。それだけで、何とも言えないぞくぞくとした感覚を覚えた。
「…できるとこまで…してみていい…?」

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「アサハカな夢・花の色」

「あ、北斗杯の進藤ヒカルくんだ!」
 棋院で急に指差された。怪しい日本語の発音に驚いて振り向くと、金髪の男性が緑色の瞳をきらきら輝かせていた。どう見ても年上。どきまぎして、ぺこりと頭を下げておいた。
 目立つ彼の素性はすぐに分かった。この春座間王座の内弟子になった、イギリス出身の研究生ということだった。
 欧米出身のプロ棋士は、日本棋院全体でも五人に満たない。なぜ韓国や中国でなく日本を選んだのかと聞かれ、彼は人懐こい笑みを見せた。
「日本ではこれでよいとされている一手を、たとえば韓国ではさらに研究するでしょう。それは確かに、日本の、よくない一面かもしれないけれど、同時に過去を大事にする現れだと思うのです。そういう日本が、僕は好きです」
 彼は好きな棋士を本因坊秀策と答えた。「耳赤の一手を知ったときは泣きました」
 そういう彼をある日町で見かけ、碁会所に誘った。何度も打つうちに意気投合した。
「やっぱ秀策だよなっ」
「そうですそうですっ」
「高永夏がなんだっ」
「なんだなんだっ」
 碁会所のマスターは、「ここに子どもが二人いるよ」と呆れた。
 彼は、その年のプロ試験では本戦中盤で不合格を決めた。一旦本国に戻りまた来年来日するという。
「進藤くんはネット碁をされますか」
「するぜ。月一くらいで韓国の秀英と打ってる」
「それは見物ですね! また見学させてください。それから僕とも打ってください」
 握手をしてから、彼は悪戯ぽく声を潜めた。
「内緒ですけどね。僕が日本でプロになろうと決めたのはネット碁がきっかけなんです。それまでは、韓国か中国に行こうと思ってました」
「ネット碁で、えす、えー、あい、saiというジャパニーズと対局して、感動したんです。日本にはこんな強い棋士がいるのかと思いました。イギリスでの碁仲間から、saiの打ち筋は本因坊秀策という日本の昔の棋士に似ていると聞いて…それから秀策を研究し始めたんです」
「衝撃的でした。日本を好きになったのはそれからです。僕が日本に来たのも、進藤くんと出会えたのも、納豆を食べられるようになったのも、全部saiのおかげなんです」

 一年後。棋院で生身の彼と再会した。
「あ、新人王戦の進藤ヒカルくんだっ!」
 相変わらずおぼつかない発音だった。

 その年のプロ試験、彼は勝率一位で合格を手にした。
 決まったその日、棋院の廊下でハイタッチした。(といって、自分は力の限りジャンプして、ようやく彼の上げただけの手に届いたのだけど)
「これからは俺たちの時代だぜっ」
「だぜっ」
「打倒高永夏!」
「それはとりあえず進藤くんに任せます」
「おいっ!」

 佐為のおかげで納豆を食べられるようになった彼と、佐為のおかげで囲碁を打つようになった自分。
 長い時を経て、「本因坊秀策」の碁を受け継いで。
 これからは、そんな自分たちの時代になる。
ルパートさん出番です


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「Before Long」

 空が青すぎて眩暈がする。
 自分の息遣いが普段以上に大きく聞こえる。
 ラケットを手に、構え、ネットの向こうの真田を見る。
 コートの周囲には他の部員たちがこの勝負を見守っている。
 彼らの口が動いているのは分かる。腕を突き上げ、声援や、野次を飛ばしているのは分かる。聞こえない。
 呼吸。心臓。耳鳴り。眩暈。
 気持ちが悪い。真田がボールを投げ上げた。

 その瞬間。

 まるで一つのテニスボール以外の何かのように向かい来る球体へ視線と体は動き追いつき、認識以前の神経が腕を振り抜かせ、ラケットにかかる凄まじい重圧を打ち返した。

 沈黙。

 わずかの暗転は自分が目を閉じたせいらしかった。気づくとボールは真田の斜め後ろ数メートルの地面を転がり、ギャラリーの歓声と口笛がコートを埋め尽くし、審判は自分の名を勝者のそれとして告げていた。
 勝てた、と。襲い掛かる安堵。それに対する自分自身の反発。勝って。当然だ。俺は部長なんだ。
 …しかし実際、無事に試合が終わったことに安心する気持ちは存在した。部員たちの前で、無様に倒れずに済んだこと。

「幸村」
 ネットの向こうで真田が握手を待っている。気の抜けた顔は束の間さえ許されず、微笑んで彼へと歩む。
「完敗だ」
「自慢の風林火山もまだまだ研究の余地ありだな、真田」
 手を伸ばした。腕まくりしたジャージから自分の手首が視界に入る。それが一瞬、ひどく白く、また細く見えてどきりとした。
「…蓮二が」 無理矢理に搾り出した声は最初の一音だけがわずかに震えた。「今の試合も、データを取っていたはずだから。ちゃんと、一人反省会、しておけ」

 真田の手を強く握り返せなかった。コートを出る間際に、ラケットを取り落とし、慌てて拾い上げるのを見て蓮二が笑った。
「やはりさすがの精市と言えど、弦一郎の『火』は腕に来るらしいな」

 ベンチに戻り、真田にはクールダウンを命じ、他の部員らに指示を出した。ペットボトルのスポーツドリンクを呷った。湿った唇を手の甲で乱暴に拭うと、ベンチの背に腕を預け体を伸ばした。汗の温度を、冷たい風が簡単に奪っていく。目を閉じた。言い聞かす。


 眩暈がするのは空が青すぎるからだ。

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「さよならの果てに君がいた」

 ビルを出る頃には、ヒカルの息は急な運動のためにすっかり上ってしまっていた。唇の感触はすっかり消えている。ヒカルは「ちぇっ」と呟いて、それから自分の感じる残念な気持ちに一人で照れた。
 またな、と最後に言ったのだから、また来ていいはずだ。少なくとも来るなと即座に怒鳴られなかった。そう考えながら自宅への帰途に着いた。最近、日暮れの時間がやや早くなった。とはいえ、喧嘩になったせいで前倒しの帰宅時間、街はまだ明るい。傾いだ太陽、赤みがかった空。雲は小さく千切れ、朱色の風に流されていた。
 家に大分近づいた辺りに、小さな公園がある。その入り口付近の電柱に、交通事故の目撃者を探す背の高い看板が設置されていた。ヒカルは素通りする。目もくれない。視界には入り込んでも、そもそも認識されない。ヒカルは今日のアキラとの対局を思い出している。
 十九路の盤と、ストイックな碁石。
 ヒカルはふと立ち止まった。公園の中へと視線を流す。滑り台。手前の地面に落ちた小石。平べったくて、摘むには丁度いい大きさの小石。それを見つめた。
(…今朝は夢見が良かったんだって、アイツに話そうと思ってたのに、忘れてたな…)
 ヒカルは惜しく感じたが、同時にそれでよかったのだとも思った。碁を打った。わずかな時間だったが検討した。喧嘩した。キスをした。一日にこなすアキラとの時間にしては十分過ぎた。これ以上何かを詰め込んでも溢れそうだ。
 ヒカルは少し、微笑んだ。
 何の変哲もない小石に誘惑され、公園に入ろうと、一歩足を踏み出した。そのときだった。
「…変な髪形ー。」
 すぐ近くで声がして、ヒカルは動作を止めた。誰もいなかったのだ。その道には誰もいなかった。しかし、その声は確かに間近から聞こえた。
「…え?」
 ヒカルはゆっくり振り返った。風が吹いた。

 二人は駅の方向に歩き出した。ヒカルは口早に、あの夜考えた石の並びを説明した。アキラはしばらく相槌を打って、やがて柔らかく、嬉しさを隠し切れないように微笑んだ。
 解説に夢中になっていたヒカルは、ふと横を見て、その微笑を見つけた途端声を飲み込んでしまった。
「…うあー…。」
「何?」
「今、どくんって、言った。」
「何が?」
「心臓。」
 ヒカルは自分で、自分の制服の胸元を指差した。アキラはわけが分からずに首を傾げた。
「…そう、僕が思いついたのもその部分だよ。その形で続きを打ってみないか?」
 二人は葉瀬中学校区を外れ、工事のための規制車道脇を歩いていた。本来二車線の道路だが、すぐ横にまで防塵シートが垂れて警備員が車を誘導している。以前は、古いスタジアムがあった場所だったが、今は取り壊されて何か新しい建物が作られつつある。
「今から?」
「うん。研究会まで時間ないか? 無理?」
 まだ鉄骨だけだが、かなり背は高い。ヒカルは見上げ、遊園地を連想し、それがなぜかしばらくして思い当たった。てっ辺が緩やかな曲線を描いているため、ジェットコースターの剥き出しの鉄骨に似ていたのだ。
「いいよ。どっか入ろ。マックとか。」
 ヒカルはズボンのポケットに両手を入れる。アキラを見るつもりで振り向いて、するとカナタまで目に入った。
 カナタは、わざとらしく明後日の方角に顔を向け、誰にも聞こえない口笛を吹いているところだった。サザンオールスターズだった。

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「sex drive」

 日本のAVって駄目だよ。以前ぽろりと漏らして以来、仲間内で俺はめっきり洋モノ好き、金髪好きで通っている。回ってくる無修正ビデオで、画面の中波うつ陰毛の色素は薄い。失敗したなぁとしみじみ思う。使う使えない基準で言うなら、本当は国粋主義者な俺だった。
 日本のAVってうんぬんの台詞の背景には、レンタルしてきた一本のビデオがあって、それはコメディ調の洋物ポルノだった。架空の裁判所で、二人の女が、互いに、自分と自分のパートナーの艶技を競い合うというわけのわからない内容で。抜けなかったけれど感心した。それは、そのビデオが、女性の快楽をきちんと描いていたからだった。避妊具もちゃんと出てきたし。和モノで、俺はそんなの見たことなかった。

 新聞を開くと、首輪をつけた女性をホテルに監禁した男が捕まっていたりする。新聞には載らないが、AV男優のようになれない自分がおかしいと悩む男や、結婚何年も突っ込む穴を間違えていて、処女のパートナー連れて不妊治療に訪れる男がいたり、「警察に行きます、警察に行きます」と泣きじゃくる少女を映したAVが普通にレンタルの棚に並んでいたり、意に沿わぬ性行為の後、受け取った一杯の水のために和姦と判断された女性がいたり、それは「義母」だったり「女子大生家庭教師」だったり「白いふともも」だったり「陵辱教室」だったり「もう堪忍して」だったりした。
 そして俺が抜けるのも、誤解と誤認とディスコミュニケーションと、許しがたい犯罪にまみれた、そういった映像や文章なのだった。
「進藤、意外に真面目なこと考えるんだな。それってどっちかってと女の子の視点だと思うけど」
「…そうかな」
 あるときから。俺はそういったことを考えて、考えて、考えずにはいられなくなった。
 それは自分が、画面の中の黒髪の女を、食らい尽くす対象を、一人の人に重ねていると気づいたとき。
 夢の中で組み敷いた身体が、柔らかい抽象から具体的な名前に変換されたとき。
 同じ男である彼に、そんな欲望を抱いていると自覚したとき。
 被対象であるとこを、考えずにはいられなくなった。自己中心的で暴力的で、人格も人権も無視した行為の対象になるのは、どういうことかと。どんな気持ちかと。
 …多分俺は生まれて初めて、肉体を持った人に恋をしたのだ。

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「嘘つくのに慣れないで」

 午前はとてもゆっくりとしたペースだった。緒方本因坊の十四手目考慮中で打ちかけとなった。アキラが昼食としてオーダーしたのは、無難に「季節の幕の内弁当」だったけれど、はなから食す気はなかった。愛想程度に箸をつけ、後はホテルの外を眺めて時間を潰した。
 春らしい薄曇りの空の下、ホテルの中庭、美しく剪定されたツツジが色鮮やかだった。庭に向かう壁一面は開閉式のガラス張りで、腰の高さから天井まで、今はすべて開け放たれていた。近づいて手を伸ばせば、花に触れられる距離だ。しばらく眺めていたが、まぶたに多少疲れを感じた。肩にかかる髪の毛を後ろに払い、アキラは椅子に身体を投げ出すと目を閉じた。腕を組む。椅子に張られた濃紅のビロードが、適度に身体を押し返した。
 聞くともなしに耳に入ってきたのは、緒方が食後のコーヒーを頼む声だった。その語尾が不自然に止まるので、目を開け振り返った。緒方の視線はアキラを素通りし、庭を見ていた。もう一度、透明のガラスに目をやる。すると真っ赤なツツジの中から、見慣れたメッシュの前髪が歩いてくるのだった。
「進藤、そこは入り口じゃないぞ」
「あ、そうなんですか」
 緒方が渋い口調で注意した。ヒカルは慌てたように辺りを見回すも、本来のエントランスは建物を挟んでまったく逆方向だ。見つかるはずもなく、焦った仕草でガラス窓の枠に手をついた。半袖のシャツから伸びた腕に力がこもるのが分かった。
 緒方が咎める言葉を口にする前に、ヒカルは身軽に身体を浮かし、一度窓枠を蹴った。次の瞬間にはアキラの前に立っていた。

 今日のインタビューは、主に本因坊戦と、来月頭の富士通杯について聞かれた。写真とコメントは雑誌に掲載されるが、それに先駆けウェブに載る。アキラが一度キャンセルしたせいで、ぎりぎりで進行していた予定が狂ったのだ。雑誌の発売日の頃には、富士通杯も本因坊戦も終わっているだろう。
 棋聖リーグについても話は及んだ。大半の予想では、挑戦者は緒方か伊角か、というところだった。
「まだ始まったばかりです。予断は無用です」 アキラは静かに答えた。「それにそれは、予想というより、期待でしょうね」
「まあ、緒方本因坊と塔矢棋聖の対局は盛り上がりますし。伊角天元との若手頂上対決もファンは楽しみにしてるんですよ」
 アキラは、笑いを作って無難に相槌を打った。
「進藤プロはいかがですか。初出場ですが」
「進藤は」
 肘掛にゆったりと体を預け、アキラは少し微笑んだ。
「強いですよ」

 街はすっかりクリスマスに染まっていた。夜になれば空の雲まで、美しいイルミネーションを反射して輝く。天元戦第五局は神戸だった。アキラは一日早く出発し、大阪で久しぶりに社と会った。竜星戦では惜しかった。棋聖戦予選の決勝でも。
 ミナミの繁華街を、まるで心安い友人同士のように連れ立って歩いた。いつもなら耳にきつく響く大阪弁なのに、なぜか語尾の柔らかなイントネーションが心地よかった。たくさんの話をして、大将えらいお喋りや、と笑われた。ヒカルの話をたくさんした。
「明日の天元戦は負けないよ」
 社の行きつけの碁会所で一局打って、アキラは真っ直ぐにそう告げた。自分は勝って、二冠になる。どこかで見ている彼の目に、その碁が、どんなにか魅力的に映るように。
 翌日。身体の打ち身がまだ痛かったので、対局者にも許可を得て洋室を用意してもらった。正座は辛い。酔ってこけたんです、ペア碁の夜に。そう話すと驚かれた。したたか酔っ払ってしまって。父に知られたら怒られるので内密に…
 その日の対局は、年間の名局に選ばれるは必至と桑原名誉本因坊に太鼓判を押される結果となった。
 アキラは三勝二敗で天元位を奪取し、名実共に若手ナンバーワンの座についた。
「戦うべき相手がいると、思われるような一局を、打ちたかったので、満足です」
 コメントは、日本の棋界を背負う意気込みのように紹介された。高永夏からは電子メールで、「では春蘭杯で」とメッセージが送られてきた。「ところで進藤ヒカルは元気かな?」

「この棋戦は、中国初の国際棋戦でした」 易しい中国語で、ゆっくりと、初老の男は語った。
「中国、日本、韓国、台湾、米国、欧州。皆さんはそれぞれの国の代表として選抜されたプロの囲碁棋士です。最近の流行は『無国境』で、特に若い方々は、様々なしがらみを初めから無いもののように振舞うこともあるでしょう」
 背後のディスプレイが、“no border”と英訳を表示する。些か不快そうな顔をした永夏の足を、隣の洪秀英が思い切り踏みつけていた。アキラの位置からではよく見えた。
「もちろん、歴史を振り返れば、人種や国境の垣根は、無い方がよい場合が多い。…ただ、今歴然と存在するその垣根を前に、皆さんが、様々な重みを背負ったが故の熱戦を、繰り広げてくれることを願います。争いがなければ和解もなく、摩擦がなければ理解もないと、盤上の手が語ってくれますように」
 よろしくお願いします。対局の前のその言葉を、男は自ら口にして頭を下げた。
「お願いします」

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「Cherry Blossom」

「…という感じなんだけど」
「うわー…」
「『うわぁ』?」
 後傾姿勢十五度ほどで固まってしまった赤也の肩を、幸村は突付いてみた。
「つっつかないでください」
「いや、思わず。後ろにこけるかな、と。でもそれで頭を打って今以上に問題が多くなったら俺は部長失格だな」
「何気にかなり失礼ですよね、あんた」
「赤也もね。何が『うわぁ』?」
 彼が連れてきた一片の花びらを、指で優しく弄んだ。
「いえいえ。…んで、そんときお互い一目惚れだったわけっすか」
「ま、さ、か!」
 頭を激しく振ろうとしたが体調上の理由でできず、代わりに強く否定した。
「赤也、俺の趣味を誤解してる」
 それから優しく微笑んでみた。
「真田はね、そうだったらしいけど。あいつ面食いだよね。身の程知らずだよね」
「…ミノホドシラズ…」

 真田は、体操服に、自前の黒いキャップをかぶっている。ラケットはテニス部のものを借りた。幸村はガットの締まり具合を確認する。サーブ権を得て、ボールをライン上に数度打ち付けた。アップも何もしていない。しかしそれは相手も同じだ。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ、幸村サービスプレイ!」
 コート上に響く自分の名前に、嬉しくてぞくぞくした。こうでなければ。
「…行くよ、真田」
 手のひらに馴染むテニスボールを、投げ上げた。

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「日進月歩・宙をゆく」

 真っ白な息を跳ねさせながら駆け回り、黒い学生服のそこかしこに雪の粉が散った。低く重なった雲がちらりと割れて、暖かな光が幾筋か、銀の地面に射した。
「とっつげきー!」
 友人たちの固まる場所に、雄叫びながら突入する。
「返り討ちにしてやるっ!」
「うわ…っ」
 するとまた直撃を受けて視界が真っ白に染まる。丁度投げようとしていたところなのでバランスを崩し、顔面から倒れた。きらきらした冷たさを鼻先や頬に感じる。
「つっめてぇ」
 無性におかしくてにやつきながら横を見ると、同じように佐為が倒れてにこにこしていた。
「お前、何やってんだよ」
「何って。ヒカルが倒れるから」
 答えになっていないことを答え、佐為は手のひらで柔らかく雪を叩いた。触れないのだから、飛び散ったりはしない。白い衣の袖が、雪に寄り添う。佐為が寒そうにしないから、雪すらぬくもりに見えた。純白の寝台に頬を寄せて、佐為はにっこり微笑んだ。

 土手にはまだ雪が残り、散歩中の犬が走り回っていた。子どもがダンボールをそり代わりに遊んでいる。まったく気が進まなかったが、滑らないよう注意しながら海岸へ下りた。波の音は一年を通じて変わらない。
「…海ですね」
 バカみたいにやる気のない感想を述べる。色も光も少ない、暗い海が広がっていた。
「なんでまた、桜野さんと海なんかに来たかったんですか? 何もありませんよ」
 同じように浜辺に降りて、緒方はまた煙草に火をつけていた。カジュアルな厚手のシャツに、ニットの上着と、レザーの上着を重ね着し、自分の問いには答えず笑った。潮風。何もないからかもしれない。他に何もないからかもしれない。

 倉庫の床に直接座り込んでいると、佐為も横にちょこんと座った。
「院生はどうだった?」
 しばらくの沈黙の後で加賀がぽつりと尋ねた。眼鏡のせいか、高校の制服のせいか、パソコンに向かう彼は知らない人のようだった。
「………楽しかったよ」
 返答までに少し時間がかかった。いろいろなことが頭を回った。院生試験。劣等感。研究会。連敗。若獅子戦。プロ試験予選。碁会所での団体戦。本戦。反則勝ちと自分の弱さ。塔矢。新初段戦。佐為。
 佐為。佐為はそれを聞いて、微笑んだ。
「楽しかった」
「そうか」
 次に現れたのは、青く塗装された金属のリボンだった。
「新しい友達もできたし」
 爪が当たって、かちりと鳴った。
「…それに俺、自分があんなに頑張れるなんて、知らなかった」
 加賀は少しだけ画面から目を離して、頬付けをついたままにやりと笑った。
「そうか」
 自分は彼にちゃんと礼を言っていただろうかと不意に思った。あのとき、頑張れと背中を押してくれたのは加賀だった。卒業式、だから卒業おめでとうの言葉より、自分は叫んだのだ。俺頑張ってるよ、と。

 越智の両手が、鍵盤の上を違う生物のように動いた。途端零れ落ちる豊かな音の海に驚いた。
「…凄いね」
「指が覚えているだけです。もう何の意味もないけど」
 黒と白の鍵を次から次へと沈ませる。そのうち、明らかにあるべき音が鳴らないことに気づいた。一オクターブを少し超えるほどの範囲に、指が動かないのだ。ぴたりと止まってしまう。
 それが、小学三年生の越智康介の、手の大きさだったのだろう。
 そう理解したときに、なぜか涙が出そうになって驚いた。冷たい海辺で、あんなひどいことを言われたって泣くことは想像もつかなかったのに。

「…あなたにとって、何の意味もないでしょうけど」
 越智が短い演奏を終えて、緋色の布を鍵盤の上にかけた。ピアノの蓋を閉める。
「今年の新初段シリーズ、勝ったのは僕だけです」

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「STAY GREEN」

 あげてもいいのかもしれない。どうせ自分にさえままならない体。好きにしてくれ。
 そう投遣りに思いながら真田の肩にすがると、汗の匂いがした。情事の汗なのに、閉じたまぶたにコートが浮かんだ。照り付ける太陽、喝采、全国大会。
 テニスがしたい。そのとき叫び出しそうになった。この体は俺のものだ。試合のために、勝利のために、俺の意志が支配する俺の体だ。
「真田」
 気がつくと叫んでいた。叫んでいた。つもりになった。本当はかすかな囁きでしかなかった。掠れた、小さな。
「真田、テニスがしたい」
「勝ちたい」
「勝つ」
「俺たちは『最強王者立海大』だ」

 空に投げ上げたテニスボール。照り付ける太陽。喝采。全国大会。
 すべてを手に入れたと思ったあの夏を、もう一度。
 もう一度。すべてを手に入れよう。
 栄冠の勝利も、心のままの自由も、目の前のこの男も。
欲望


 レギュラー陣が揃うと狭く明るい部屋だ。もっと白い印象があったのに、今は色に満ちている。取り留めのない会話を交わしていると、丸井ブン太がケーキを片手になにげなく聞いた。
「手術、痛かった?」
 さぁ、と幸村は首を傾げて微笑んだ。麻酔が効いていたし、覚えていないよ。手術の間ずっと夢を見ていたような気がする。
「何の夢ですか?」
 柳生が礼儀正しく問いを重ねた。
「全国大会」

 言葉に詰まった。皆が帰る前、最後に、幸村は一人ひとりの顔を見て言った。
「関東大会準優勝。おめでとうとは言わないよ。俺は明日からリハビリに入る。全国に間に合うかは分からないけれど、俺がいても、いなくても、立海大付属は最強のはずだ。そうだな?」
 視線が突き刺さるのを感じた。自分と、柳と、赤也を、特に幸村は見ていた。
「試合のビデオは見せてもらった。勝てない試合ではなかったと思う。特に、三年生の二人は」
「…俺だって!」
 赤也が叫んだ。言い募ろうとし、しかし幸村に目で遮られた。
「ダブルスでも課題は残る。全国までに、勝った者も負けた者も、さらに力をつけろ。目標はただ一つ、全国三連覇だ」 
 皆が黙り込んでしまったために、幸村は柔らかな笑みを見せた。「四連覇以降は赤也たちに任せるからね?」
「…はいっ!」
 そしてもう一度、ベッドから全員の顔を見つめ、強く激しい語調で口にした。 「常勝、立海」

『常勝立海!!』
彼という人


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「FALL IN LOVE / LOVE IN FALL」

「お邪魔しますー。あ、これ土産」
 間口で靴を脱ぐ進藤からコンビニの袋を受け取った。袋の口から冷気が立ち上る。
「…アイス? なぜ」
「夏過ぎたら食いたくならねぇ?」
 さぁ、特には、と訝しく答えてから、とりあえず冷凍庫に急いだ。バニラのカップアイスが二つだった。この寒いのにと呆れたが、対局をしたら身体が火照るので、その後頂こうと思う。時間的には夜食だろうか。こんな時間に来られては。
 和室に戻ると、進藤はすでに自分で座布団をスタンバイしていた。僕もすぐに向かいに座して、手近な碁笥を手に取った。「お願いします」。
 実は数ヶ月前ささいなことで大喧嘩して、今日までろくに話もしなかった。それなのに何もなかったように囲碁を打てる。進藤は実は大人だ。大人というか…懐が深い。そして情が深い。あまり一般的ではないらしい性格の僕を受け流すわけでなく、きちんと自分の中に位置づけている。進藤は、受け入れるのが得意なのだ。
恋に落ちた


 夏の間しまいっぱなしだった長袖のプルオーバーは皺くちゃだった。だけど背に腹は代えられない。アイロンを当ててもらうのも面倒だった。ふうわりと花の香りがする。甘ったるいその匂いは明るく咲き乱れる金木犀。椛より、銀杏より、真っ先に早く季節を告げる。
「押しつけがましい匂いだ」
 塔矢に言わせればそういうことだ。自己主張激しいもの同士だから。それにあいつは見た目に反して情緒がない。比べれば、自分のがよほどセンシティブ。多感なお年頃十六歳。もっとも季節の風物詩なんて、それを愛でる気持ちも、そうです全て受け売りですが。佐為の。
 電車の中で、サラリーマンや大学生がジャンプを読んでいた。つまり月曜日。ちらりと紙面を覗いたけれど、知らない漫画だった。扉付近に立っていると、乗り込んできた若い女性が一人、ブーツのピンヒールを隙間に挟み込んでこけそうになった。手を貸して支える。お礼を言われて、改めて車内を見回すと、夏中かつかつうるさかったミュールなんてもう誰も履いていない。黒や茶のブーツ。
 芹澤先生の研究会に遅れて到着すると、正座の塔矢が顔を上げた。タートルネックのセーターに、厚手のジャケットを重ねている。寒がりめ。
秋の音色


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「popteen・eighteen」

「今日? 何?」
「九月、二十日、なんだけど」
 やけに区切って言われた。じーっと見つめてくるのに首を傾げた。
「…敬老の日?」
 途端に頬を膨らませる。ちょうちんあんこうってこんな感じだったろうか。全然違う…?
「恋人さまの誕生日忘れんなよ、お前」
 玄関先に出るためにサンダルを突っかけていた。それを脱ごうとして二度ほどつまづいてしまった。
「…こいびと…?」
 復唱したのは別に疑問や不服があるからではなく、嬉し恥ずかしかったからである。
「……誕生日…?」
 少なからず、ショックを受けた。「知らないよ。知ってたら忘れない。そもそも知らない」
「プロフィールくらいチェックしとけー」
 進藤はいかにもむっとした顔のままスニーカーを脱ぎ捨てる。
「じゃあ、やっぱプレゼントなんか用意してねぇよな」
「…たかりに来たのか、君は。まるで早めのハロウィンだな」
「……終わっちゃう」
 腕時計で光るデジタルの数字を示して進藤は言う。
「……………おめでとう」
 滑り込みセーフ。
Today's Special 〜キミはボクの太陽だ!〜


 いつからだか塔矢にときめくようになってしまった。病気かもしれない。かわいそうだ。
 初めは、対局の緊張のどきどきとか、いつも突飛なあいつへの驚きのどきどきとか、そういうものが消えないだけかと思った。
 ていうか、多分、あれだ。吊橋の真ん中で出会ったら、恋に落ちるっていうやつ。体のどきどきを、頭が勘違いしてるんだ。そんで、ぴぴぴっと指令、「これは恋ですよー」。
 …これは恋ですよ。
EXTRA LOVERS 〜more little cat〜


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「血と肉と蜜と 第三十一期碁聖戦挑戦手合五番勝負第一局緒方精次九段対進藤ヒカル七段」

 決勝戦は中押しで終わったので、和谷たちを探しに行くと彼女はまだ対局していた。探し人が見つからないまま盤面を覗くと、すでに彼女は負けていた。右辺で生きる道があるかと、いろいろ可能性を考慮してみたけれど、やっぱり駄目だ。はたしてそのとき彼女はアゲハマを盤に落として投了した。
「ありません」
 頭を下げ、そして髪を揺らしながらまた上げた。偶然目が合った。なんとなく逸らさずにいると、しばし視線が絡んだ。碁盤から少し離れた場所にいた自分にさえ届く、「ありません」という声。彼女はまだこちらを見ているようだったけれど、先に俯いた。目を伏せ、自分の派手なシャツの柄が見えた。なぜだろう、恥ずかしくなった。見ていられず、しかし他を見ることもできなかった。彼女の前に、ただ深く目を伏せた。
 この女と寝るだろう、と、思った。そして後から聞くと、このとき、彼女もまた似たような思いを抱いていたということだ。
 不思議だね、と薄く笑ってそこから先を何も追及しなかった。欲情したということでもない。恋の嵐なんて遠すぎる静かな海なのに、それでも男と女だったよ。

「…俺、塔矢が好きだ。……好きなんだ」
 彼女は体を起こした。じっと見つめてくる。応手に迷っていた。そしてやがて、いつまでもぐすぐす泣いている男に、「打とう」と誘いかけたのだ。
 なんて、誘惑。
「四子置かして。それで、賭けよう」
「…何を?」
 疑問を口に出すと、指で胸を突かれた。細い人差し指で、裸の胸を強く押された。
「進藤を。心は囲碁のものだから、進藤の体。私が勝ったら私のもの。進藤が勝ったら、」
 ―――塔矢にあげる?
 彼女は唇を歪めて笑った。指先が強く、強く、この胸を押す。
 彼女はパジャマをきちんと着て、いつかのボーナスをはたいて買ったという脚つきの碁盤の前にぺたんと座った。
「座って。打とう」
 見上げてくる彼女に絶句した。彼女の瞳はきらきら輝いていた。安物のミュールと口付け。その輝き。眼差し。黒髪の下から睨む、その視線の強さ。
 この体に。この血肉に、一体どれほどの価値があるのだろう? 一局を賭けるほどの。
 だけど、所詮、そんなものなのかもしれない。
 こんなふうにお遊びのように、だけど何より真剣に、やり取りされる、それだけのもの。
 服を着て、碁盤の前に座った。
 黒石四子を置いて打ち始める。何よりも心を注ぐ、この盤上に。

 身支度を調え、スーツを着て、自分でネクタイも締めた。それでも時間は余った。扇子を手にし、ベッドに腰掛ける。ここからだ、という思いが膨れ上がる。皆が見ている。見てくれている。ここから、自分が、どこまで行くかを。
 対局場である特別和室に向かっていると、長身の人影を発見した。
「社じゃん!」
「おお、進藤。応援に来たったで」
「大阪から?」
「車で4時間ってとこやった。東京より近いで」
 がんばりや、と頭をくしゃくしゃされた。なんだか照れてしまい、「セットが崩れる」とか冗談にした。
「おはようございます」
 部屋には、記者や鎌石九段、塔矢がすでに入室していた。扇子を握りしめ、碁盤の前に正座する。記者がちらりと腕時計に目をやった。八時五十分。
「おはようございます」
 定刻五分前、緒方の声がした。息を呑む音に自分も顔を上げ、驚いた。
 羽織袴姿の緒方碁聖が立っていた。

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「sky dRop」

「『中国じゃなくても碁は打てるじゃん』って」
 木々の枝が折り重なって、見上げると空が小さかった。森林公園というからには、もっと涼しい場所を想像していたのだけど、都内の熱気には負けるのか。暑い。しかしだからか人がいない。隣接する市営のプールは繁盛しているらしく、風に乗って声が届く。
「…お前そんなで暑くねぇの?」
 塔矢アキラは半袖シャツの上に目の粗いベストを重ねていた。「冷え性? うちの母さんがいつもそう言ってる」
「今日は午前に指導碁の約束があったからね」
 塔矢は静かに答えるとシャツの襟元に手をやった。蝉が鳴き始めた。よく見ると塔矢は額や首筋にうっすら汗をかいている。なるほど暑くはあるらしい。
「…昔杞の国の人が」
「あ?」
「天が崩れ落ちはせぬかと心配した故事から、杞憂という言葉ができたんだよ。杞の人の憂い」
「……日本語?」
「日本語」 塔矢は少し笑って、君はもう少し勉強をした方がいいと腹の立つ所見を述べた。
「…で? それが何」
「………あまり関係はないよ。ふと思い出したんだ。…真柴や和谷は、きっと、囲碁を打つのが当然だと思っているのだと思って」
「当然じゃねぇの?」
 驚いて声を上げた。木漏れ日は柔らかな草地に落ちていた。
「当然…なんだけどね。僕らは棋士だし。だけどたまに思うんだよ。こんな苦しくて楽しいこと、当たり前にしてしまったら勿体無いって。打つたびに、打つことを選んでいるんだと思えば、『どこでだって打てる』なんて言えなくなるんじゃないかな。場所を選ぶ余裕なんてなくて」

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「春と修羅」

 居間へ行くと、子どもは碁石で遊んでいた。こんな小さな子が、過って飲み込んでしまったらどうするのかと呆れた。
「アキラくん、それは駄目だよ」
 白石を二つ握り、打ち鳴らすようにする。それから碁笥に手を入れ、かき回す。
「遊び道具じゃないんだよ」
「おだたたん。碁」
 たしなめても聞かない様子で、子どもは立ち上がり碁盤に手をついた。そして白石を一つ、碁盤の上に置いた。
「…碁?」
 少し愉快になって、試しに黒石を打ち返す。きゃっきゃとはしゃいだ。操作性の怪しい手つきで、それでも交点に、子どもは白石を置く。打ち返す。するとまた、白を。
 飽きもせずそれを繰り返す。合間合間にも石に触れている。石を見つめている。美しさなど分からないだろうに。
 ―――石を取られた。もちろん取らせたのだが、子どもは明らかに黒一子を白で取り囲み、小さな丸い指先でそれを盤上から取り上げた。「あま」、と、嬉しそうに繰り返し、笑っている。ハマのことだと気づく。
「アキラ、緒方さんに碁を打ってもらっているの?」
「おたあたん。あま。おだたたん。あま」
 母親を見上げ、子どもはこてんとその場にしりもちをつく。
「あら。よかったわね。……行洋は大人気ないんです。自分で教えておいて、次からは決して取らせようとしないのよ」
 さぁ、碁石は片付けて。食事にしましょう。女は朗らかに言って膳を整え始めた。「アキラ。お父さんを呼んできてちょうだい」
「あい」
 子どもは黒石を握り締めたまま歩いていった。アゲハマを父親に見せたいのだろう。
「塔矢先生はアキラくんに碁を教えているんですか?」
「いいえ。始めはアキラが見よう見まねで覚えてきたの。行洋は、押し付けるようなことはしたくないと言っていたけれど、どうかしら。アキラが囲碁に興味を持てば、小躍りして喜ぶでしょうね。何にせよ、あの子はまだ自分で何かを選ぶには小さすぎるわ」
真夏のグラスの水滴と君


「ご両親は知ってるの?」
「ううん。たいしたことないから大丈夫だよ。…言わないでね? 心配かけたくないし」
「何言ってるの。親は子どもの心配をするのも仕事よ」
「お父さんの仕事は碁を打つことだよ」
 子どもはとても誇らしげにそう答えた。お金を得るという意味での仕事ではない。神様から与えられた、それが仕事だと。
 学校で、いじめられているの? 喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
「分かったわ。私とアキラくんの秘密にしておく」
「ありがとう、市河さん」
 大人びた顔つきで笑う子どもに、胸が痛んだ。
 一流の棋士でも、普通に、妻を愛し、子を愛し――家庭を。

(晴美)
(晴美、やっぱり結婚できない)
(別れよう)
秋桜


「そりゃ、海王囲碁部と対局なんて恐れ多いんじゃないか?」
「ははは。みんな下手の横好きっすね。何なら好きなだけ石置かせてやってもいいのに。へぼの年寄りばっかでつまんないっすよ」
 気がつくと考えるまでもなく、その男子生徒の向かいの椅子を引いていた。「塔……おい、」 進藤が慌てて止めようとしたが、早々に碁笥を手にし、「一局お願いできますか」とにっこり笑っていた。
「……。自覚ないのはどっちだよー。おいこら」 背後で進藤が呟いた。
「え、あ、ども。ええと、棋力は…」
「互戦で。何なら、好きなだけ石を置いて下さって結構ですよ」
 静かに言うと、相手は舌打ちをした。「何だよ…」
 会話をしていた上級生らしき生徒は、こちらの顔を見てぎょっとしたようだった。
「おい。お前止めとけ。こいつ…」
「あ。そっちの人、手空いてんだ」 進藤が元気良く隣の椅子に腰掛けた。「俺と打ってよ。……ね?」
冬在菩薩


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